中央大学通信教育部
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| 第2回 認識されて無視される通教の実体 |
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あなたに物事を教えようとする人が、本当にあなたのことを考えているなら、まずはあなたの個別の事情を考慮します。なぜなら、あなたの”できる範囲でできること”だけが選択肢であり、それを選んで行動するのは、最終的にあなた自身だからです。
通信教育課程で学ばれようとするみなさん、特に経験豊富な社会人の方にとっては当たり前のことですね。
しかし、この当たり前のことができていないのが通信制大学というコミュニティです。
「○○するものなんだよ。だからあなたも・・・」
「みんな××だからあなたも・・・」
「△△は難しいからやめたほうがいいよ」
これら○○、××、△△に何かを当てはめて物を言われた事がありませんか?
○○するものだと誰が決めましたか?
みんな××だといいますが、その「みんな」の事をどうやって調べたのですか?
△△が難しいのは、難しいと思っている人の要領が悪いからで、あなたにとっては簡単かもしれませんよ?
この手の”自称”アドバイスはよくあるパターンです。”自称”とするは、それが助けにならないケースや真心を込めていると言えないことがあるという皮肉です。
しかし、これを言っている本人たちにまったくその意識はありません。本当にそれがその人、すなわち、あなたにとって正しいと思っています。
でもアドバイスではありません。
なぜか。
それは、決めるのはあなたであるという大前提を忘れているからです。
どうしてそう言い切れるのか。
簡単です。
ただの一般論を言っているか、自己の経験のみをあなたに押し付けているからです。
「ハイコンテクスト」「ローコンテクスト」という言葉をご存知でしょうか。「コンテクスト」は直訳すると文脈という意味になりますが、背景や共有情報、具体的には、言語や歴史や経験、価値観などが含まれます。インターネットで簡単に調べることができますが、概ね以下のような説明となるはずです。
ハイコンテクスト文化とはコンテクストの共有性が高い文化のことで、伝える努力やスキルがなくても、お互いに相手の意図を察しあうことで、なんとなく通じてしまう環境のことです。
とりわけ日本では、コンテクストが主に共有時間や共有体験に基づいて形成される傾向が強く、「同じ釜のメシを食った」仲間同士ではツーカーで気持ちが通じ合うことになります。ところがその環境が整わないと、今度は一転してコミュニケーションが滞ってしまいます。お互いに話の糸口も見つけられず、会話も弾まず、相手の言わんとしていることがつかめなくなってしまうのです。このことから、日本においては、「コミュニケーションの成否は会話ではなく共有するコンテクストの量による」ことと、「話し手の能力よりも聞き手の能力によるところが大きい」ことがわかります。
一方、欧米などのローコンテクスト文化ではコミュニケーションのスタイルと考え方が一変してしまいます。コンテクストに依存するのではなく、あくまで言語によりコミュニケーションを図ろうとします(見方を変えればコンテクストに頼った意思疎通が不得意とも言えます)。そのため、言語に対し高い価値と積極的な姿勢を示し、コミュニケーションに関する諸能力(論理的思考力、表現力、説明能力、ディベート力、説得力、交渉力)が重要視されることになります。
はっきり言ってしまえば、通教とはローコンテクスト文化の地域社会なのです。年齢、職業、基礎学力、居住地、入学動機など、学生個々人のバックボーンが極端に異なっています。それぞれを具体的場面に例えるなら、以下のような場合が考えられるでしょう。もちろん個人差がありますので、あくまで一例です。
年齢 => 記憶力、行動半径、経済力の違いから、若年層と老年層とを一緒にできない。
職業 => 職種により本を読もうにも時間がない。スクーリングに行こうにも休みが取れない人がいる。
基礎学力 => 同じ説明をしても、理解できる人間とできない人間がいる。
居住地 => 図書館、書店などへのアクセスに差がある。ネット以外の学習ツールにおける情報過疎。
入学動機 => 通教=生涯学習。全員がロースクール進学や資格取得を目指しているわけではない。
通学課程と異なり、皆同じではありません。当然に始めから皆違うのです。この言われてみれば当たり前の事が、まったくと言っていい程に考慮されていません。学生からの「わからない」という問いかけに対し、「もっと本を読みなさい」という指導は、時として問いをもって問いに答えるようなものであり、社会人にとっては実現不可能な難題をさらに押し付けてしまう結果をもたらすことにもなりかねません。
世の中には法学部の学生を対象とした「学習方法」を説いた書物がありますが、それも通学課程の学生を念頭においたもので、社会人学生では実現不可能な内容が書かれているケースがほとんどです。皆さんの手元にある「リベルス」も例外ではありません。
つまり、有効な学習方法も人によって違うはずで、まずあなたがどのような人かを聞かずにいきなり方法論をぶる人は、本人の認識を問わず、何もわかっていない人ということになります。これは教員であっても同じことです。どんなに偉い先生でも、あなたの状況を聴かずに話を切り出してくる場合は、その先生がこれまで教えてきた学生に対する有効な学習方法としての指導であったとしても、あなたにとって同様に有効であるどうかは、まったく保証されていないのです。
ご理解いただけたでしょうか。そういう人たちの話を聞いてはいけないということではありません。話を聞いて、それを自分の立場に当てはめて、何が自分にとって正しいのか、それを判断しようとすることが大切なのです。このようなご時世ですから、現実的にも個人の情報を事細かく聞き出すことはできませんし、そのような人がいれば、どこか怪しい印象を抱いてしまうこともまた無理はありません。”自称”アドバイスとは、いつでもあなたのセカンドオピニオンで、その限りの価値のあるものであり、また、その程度の価値しかありません。それが、前回の終わりに「決めるのはあなたです。そして私たちはあなたのその決定を尊重します。」と付け加えた真意です。
この前提をご理解いただいたうえで、次回、「卒業率」は実体を現しているのか。本当に卒業は難しいのかについて検討します。
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次回へ続く
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